总体来说,音乐不错,用狂言师进行旁白也是一大亮点;表现主义的画面将人物心理的具现的挺好,但有些地方表现的稍微过火了点,比如说雪地里意义不明的鼻子眼睛什么的…有点画蛇添足了
动画其实是与自己的对话,我想要了解不同的东西,通过创作就可以实现。我现在过了50岁,发现自己不管自己想多少,世界还都是一片混乱。现在终于搞清了,就是不如干脆划清界线,单纯享受动画创作这个过程。——山村浩二
山村浩二13岁便完成了自己第一部动画作品,大学毕业后不久便辞职做起自由动画家。他的作品在各大国际动画节上获奖无数:
法国昂西国际动画电影节最高奖,奥斯卡最佳短片奖提名,萨格勒布国际动画节、广岛国际动画节、芝加哥国际儿童动画电影节、渥太华国际动画电影节大奖……
达成了世界四大国际动画电影节全部获得最高奖的成就。(公认的四大国际动画电影节为:昂西国际动画电影节、萨格勒布国际动画电影节、加拿大渥太华国际动画电影节、广岛国际动画电影节)
山村浩二多年一直坚持纸上创作。他每一部作品的风格都不一样,始终都在尝试新的表现手法。
纵观山村浩二的创作生涯,在早期,以《头山》为代表,他还试图在影片中试图融入自己的想法。到了后期,他则如自己创作宣言中所说,干脆划清界限,单纯享受创作动画这个过程,尽量保留原著的气息,如《老鳄鱼》 《鹤下绘和歌卷》 《游行》,都很好的实践了他的美学思想 。
照搬原著→学习→模仿→变成自己的。这也是自明治起,日本近代知识分子的一贯思想。
对山村浩二来说,每一次得到认可的模仿之作,都是在艺术动画层面对西方技巧的接近和超越。
《乡村医生》,就是这样一部源自山村浩二后期思想的作品。
动画以《乡村医生》原著的形式和美学作为参照,用影像语言为我们展现了一部别具风味的卡夫卡动画。不同于有些改编动画,导演对原著文本的处理极端保守,以至于编剧一栏直接标注为:弗兰茨·卡夫卡。
动画的旁白和故事情节对比原著未动一字。对观众来说,这是一种整合的,对原著扩展式的体验;也就是说,它能够在保证观众能够得到阅读卡夫卡的文字所带来的阅读体验的同时,通过添加动画与音乐再起到的一种推波助澜的作用。也就是俗话说的加味精。
既然配上了音乐和动画,相比原著肯定是有表现性太过的嫌疑,这一点见仁见智了。
不过就作为一个动画制作人来说,想要给予原著十足的尊重,又能够用自己的方式展现自身对作品的理解,我想这是唯一最好的办法了。到这种程度,才能算做出了尝试,并有了对《乡村医生》的理解。
总体来说,音乐不错,用狂言师进行旁白也是一大亮点;表现主义的画面将人物心理的具现的挺好,但有些地方表现的稍微过火了点,比如说雪地里意义不明的鼻子眼睛什么的…个人感觉有点画蛇添足了
《忏·再见,绝望先生》第七话,女主角风浦可符香(P·N)打电话给木津千里处的手机屏保为《乡村医生》。从中可以看出日本动漫界向《乡村医生》的致敬。
说完了电影,我们再来谈谈对原著的理解。看讨论发现关于《乡村医生》原著的剧情和结构,还是有很多同学喜欢对片中卡夫卡的隐喻对号入座,用某种现实存在往他的比喻上套,这是错的。
本片开篇引用了一句卡夫卡日记中的话,“真正的道路在一条绳索上。它不是垂在地面的,而是悬吊在空中的,与其说是用来行走的,毋宁说是用来绊脚的。”
了解卡夫卡背景的人会知道,卡夫卡热爱写作,大学时本想选择文学作为专业,但囿于父母的压力,最终选择了法律专业,之后也长期在保险公司上班。即使这样,他也从来没有终止过对写作的热爱,即使这条路困难丛丛。
但据此如果我们把关于绳子的这句话理解为,“对社会压抑自己真实理想的不满和控诉”是不对的。
卡夫卡深受尼采的影响。在《查拉图斯特拉如是说》中,尼采也有一段对绳子的描述。
“人是一根系在动物和超人之间的绳子。一根悬在深渊上方的绳索。走过去危险,中途也危险,颤抖也危险,停住也危险。 人身上伟大的东西正在于他是一座桥梁而非目的;人身上可爱的东西正在于他是一种过渡、也是一种沉沦。 ”
至此我们可以看到哲学家和文学家的区别。同样是寓言体,在尼采这里用来阐述理念,在卡夫卡这里,则用来描述一种状态。
在尼采处,心理压力被释放、突破和无视,他做出结论;而在卡夫卡这里,心理压力并未消失,他将它带到了文字之中,尽量保持原封不动,且不做任何评论。
当然,按照福柯的说法,尼采走的高,卡夫卡走的深,所以不存在谁高谁低的问题。
在尼采那里,最难的地方是导出结论;在卡夫卡这里,最难的地方是将状态原封不动的写入文字。
仅仅是记录,没有任何讽刺、批评、影射、罪恶、不满。
国内评论最大的问题,就是喜欢搞X字狱,受到解舫初期各种运动影响留下的遗獨影响,对什么东西都上纲上线,用政治和意识形态的方式作出简单粗暴的结论,然后批判一番。这种评论,本来就是为了应付特殊的意识形态要求而出现的产物,没想到还进了教科书,被学生们学习,荼毒一代又一代人。搞的好多人以为正常的文学评论就应该是这样的。
我想说卡夫卡作为一名一百多年前的作家,被研究的其实也很多了,只要花点时间去理解,卡夫卡并不难懂,可以读加缪、昆德拉、甚至村上写的卡夫卡评论。但是请不要听信国内老师教的,不要读国内专家写的,他们大部分不懂,而且就算懂也没办法。这样的东西看多了降智商,读了你也只会越错越远。
在此我抛砖引玉,提出两个理解《乡村医生》的切入点:
一是内容情节
卡夫卡是一个生前默默无闻,甚至在死后也叮嘱好友不许发表自己作品的人,是好友背叛其遗嘱将作品公布于世,世人才得知这样一位文学大师。作为一个写作只是为了自娱自乐的人,写作无非是为了排遣思绪与压力。
充斥于卡夫卡文本中那些读来让人感觉恐怖和窒息的东西,那种处处存在的无形的墙和恶意,大多是当时欧洲反犹主义的艺术化表现。在此推荐同学们百度一下“反犹主义”,可以对理解本文起到很好的作用。
二是文本结构
《乡村医生》是以梦境的笔触来叙事的。各位可以回想自身的梦境及其运作方式,对于梦及其运作方式不了解的同学,可以参考比如S·弗洛伊德《梦的解析》一类的著作,帮助理解。
本当の道は一本の綱の上をとぼっているのだが、綱があられているのは高い所ではなく、地面スレスレである。それは歩かせるためというより寧ろ躓(つまず)かせるためのものの様に見える。 私は困り果てていた、本当なら 今すぐにでも出発しなければならなかった。十キロの離れた村で重病患者が私も待っているのだ。 馬車の用意をしようか? 自分の家に何が閉まってあるかわからないものですわね。 この獣で、鞭を喰らいたいのか? この男は何処のものとも知らぬ、見ず知らずの他人なのだ。 たっだ、誰もが断る中進んで私を助けてくれた唯一の人間なのだ。 さあー 乗りなきゃ だが、御者は私だ、お前は道を知らないからね 勿論、俺は一緒になんか行かない、俺はローザといるよ。 イヤ! お前を私と一緒に行くのだ、もし行かないというのなら、出発待っているはこの旅は諦めよ。 馬の代わりに娘を差し出すなんか更々無いでなあ。 さあー 行き! 先生 僕をしませて そうさあ、こんな時になると神々は救いの手を差し伸べなれる。足りない馬を寄越され、急ぎのようだからともう一頭、お負けに余計な馬子まで授けてくださる。 早速戻ろ。矢張りそうだ、少年は健康だ、母親の与えたコー匕ーの飲み過ぎて少々血行が悪くなっているだけだ。 本当は一思いにベートから叩き出すのが一番えだ。とは言え、私にはこの世を改善する気なんか無い、だから患者はこのまま寝かせておく、私は地区の雇われ医者にすぎす、自分の責務は十分熟している、給料ときたらひどいもんだが。気前はいいし、貧しいものの味方だ。少年の言う通り、私だって死にたいくらいのこんな果てし無く続く冬に一体どうしろうというのだ。 豚小屋にいたのがたまたま馬だから良かったようなものの、つまりがこうなのさ。 しかし彼らはそんな事知る由もない、また、知ったとしても信じしないだろう、処方を書くのは簡単だか、人々の気持ちを通わせるのは難しい。兎に角、この診察はお仕舞い。 私はまた無駄足を運ぶされたってわけだ、でも、もうこんな事には慣れだ。 この村の連中は夜の緊急ベールをのべつ鳴らし、私を苛むつもりなるだろう。 私はあれこれと一時凌ぎの言い訳を考える。さもないと役立たずこの家族に向かて殴りかかっていきかねない。全くこの連中は私に何を期待していもんだ、事によると 本当に少年は病気かもしれない、 ああ、今度は両方の馬が嘶いている、きっと上からの命令かなんかで、わたしは診察しやすいようにしているのだろう、そうだ、少年は確かに病気だ。 可愛な少年よ、お前はもう助からない、私はお前のひどい傷を見つけた、その肋の咲いた花のためにお前は死んでゆくのだ。 僕を助けてくれるの? さあ、どうぞ お気に召すまま 私にどうしろうというのだ。 私は下働きの娘を強奪されたしがない田舎医者なんだ。 (裸にしちゃうそうすれば、きちんと治すだろう、もう治さなかったら、殺しちゃえ、たかが医者さん) ねえ、僕あんたも事なんて全然信頼しちゃいないだろ、だって、あんたは何処かで不良出されただって、ちゃんと自分足でやってきたわけじゃないからな、助けてくれるどころが、僕の死の床を窮屈にしに来ただけだけじゃないか。 全く、目玉を刳り貫いてやりたいよ。 全く、まって面目ない、でも私は医者だ、どうしようか、わかるかい?これでなかなか難しいだ。 そんな言い訳で僕に満足しろているのかい? ああ そうさ、いつだって満足しなきゃならないのさ、素敵な傷を持って僕はこの世に生まれてきた、こいつが僕の唯一の宝物でわけだ。 若い友よ、お前の欠点は視野が狭いって事だ、これでも私はあちこちでありとあらゆる患者を見て来た。その私が断言するだ、お前の傷はそうひどい物じゃない。斧で二度ざくりと斬り込まれたのだろう、森の中で脇を やつは結構多い、このノートなど聞いちゃいないし、勿論斧で近づいてきた事なんてとんと気づかずにな。 本当にそうなの?それとも熱に浮かされた僕をごまかそうていうの? 本当さ、この雇われ医者の誓いを携えてあの世の道を行くが良い、今度は自分の救出を考える番だ。 さあ、行け! (喜べ、患者たち、お医者さんは一緒にベートで寝てくれた。) 子供たちの新しいでも間違ッた歌。 こんな帰家は始めてた、 騙された!騙された! 一度でも真夜中の出任せの呼び出しにもう取り回しのつかない事になるだ。