《仁义的墓场》和《无仁义之战》是唯独进入日本旬报电影百佳的两部黑帮电影,皆出自实录片的开创者深作欣二,但两者侧重表现不同。《仁义的墓场》的丰富性更高,极具日本新浪潮的遗风,色调摄影犹如铃木清顺的浪漫黑帮风格,搭上深作欣二固有的狂野运镜,手持拍摄,写实的纪录片风格手法,充满了黑帮世界群像的残酷浪漫美。此外精神内核则来自于大岛渚的《太阳的墓场》这部日影史首次大幅度描写现代黑帮的作品,黑帮犹如传统日本民族国家的缩影,传统义理在战后冲击的毁灭将主角步步推向精神狂乱。
黑帮电影是日本邪典影片的遗言,充满传说、法则、历史和仪式,侧重表现法外人、边缘人和失败者的梦想,也是暴力主题在日本影像的一个主要侧重点,70年代的实录电影角色多发迹于战后的日本,传统的任侠描绘鲜明的正邪之争,而实录则高度写实,此片当年在日本的首版预告片即宣传野兽般的半生,绝对是黑帮片中的凶暴之作 。
影片取材于真实人物,自幼想成为黑帮大哥的石川力夫1940年加入河田组。为组织之壮大卖命打拼,但也因其狂暴激进的脾气而始终不得重用,心存愤懑。
战后,石川与在北海道狱中结识好友今井幸三郎向第三国际帮派发起进攻,凭借警方纵容,今井接管中国人赌场,成立今井组。石川刺伤池袋亲和会成员,两派剑拔弩张,河田组长出钱请美国人干预摆平。不久石川因受训斥,炸毁河田组上层领导野津幸三郎之坐驾,接二连三祸事令河田对石川大加挞伐。受河田压力的今井与石川关系破裂,石川将枪口对准了昔日结拜兄弟的胸口……
片中的细节点极有当年日影特色,片头介绍中石川力夫的照片上有红圈,日本电影里的红圈立刻让人联想到日本国旗,也让人想起佛陀的圣圈,电影里的另一个红圈是气球,画外音描述主角童年的梦想:我就像不断升高的气球,飘的越来越高,直到最后爆炸。讽刺的是他跳楼自杀式的爆炸,非但不是上升,而是更多的下沉,犹如边缘人的自我毁灭。影片使用不同滤镜颜色表达时间线,增添战后世界的混乱史诗感;美国军队的占领,,第三国际,中国和韩国在二战后在日本的遗民,安藤升的政治竞选象征政治圈来自日本黑帮的势力,特别值得注意的是,安藤升进入影圈前本人即为黑道头目,这些人物群像刻画非常贴近时代现实,此外值得挖掘的点还有非常多,非常值得观看
石川力夫年谱
大正十五年(1926年),出生于水户。因与继母不和,十五岁离家出走。来到东京后,十六岁时成为“的屋”yakuza新宿和田组组长和田薰的若众。
昭和十八年(1943年),袭击了说和田亲分坏话的yakuza,在函馆少年刑务所服刑。次年8月出狱后,凭借维护亲分名誉的功绩及其暴力性,确立了在和田组内的地位,成为拥有市场和舍弟的在一方有头有脸的人物。
昭和二十一年(1946年),以“亲分不照顾我”为由,闯入和田组事务所闹事。之后得知其他组员追赶自己,认为是和田组长指使的,和舍弟两人到组长家找茬打架,用短刀致其重伤。在妻子地惠子的帮助下继续逃亡,但最终还是自首了。据说和田组长因为那次受伤,终生腿脚不便。
昭和二十二年(1947年),被送到府中刑务所。次年出狱。石川因为违背了yakuza社会的规范“仁义”,在刑务所内被想要取他性命的人盯上。警察和刑务所相关人员同情石川,与关东yakuza的“长老”交涉,作为救石川一命的代价,做出了将其逐出关东十年的温情处分。
昭和二十三年(1948年),石川在被逐出关东后还没到一年零两个月,依靠结义兄弟今井幸三郎回到了关东。此时的石川已经染上毒瘾。
昭和二十四年(1949年),被今井警告在赌场的态度因而发生口角,用短刀使今井受轻伤。今井并没想要报复,石川却认为今井一定会报复,于是先发制人闯入今井家,用手枪杀害了今井。当时保护今井的姘居的照子也受了重伤。石川躲在藏身处,被警察和今井手下的yakuza联合包围,被投石阻止了逃亡,当场试图剖腹自杀也没死成。
昭和二十六年(1951年)1月24日,石川之妻地惠子打开煤气管后割腕自杀。听到噩耗的石川受到打击,身体衰弱并患上肺结核,无法忍受服刑而获假释。出狱后的石川继续过着勒索毒贩的生活。难以忍受的毒贩通知了和田组,石川被和田组长的亲弟弟等人砍成重伤,之后被关押在府中刑务所。
昭和三十一年(1956年)1月24日,以晒被褥为借口爬上刑务所屋顶,用被褥捂住脸跳下去自杀。最有力的说法是,石川原本打算出狱后向和田组发起斗争,但由于两肺患病,身体衰弱,对前途感到绝望,于是在地惠子忌日自杀。
石川生前准备的墓碑上刻着“仁义 石川力夫 今井幸三郎”的墓志铭,忌日就是今井去世的日子。关于石川特别刻下“仁义”二字的意义,不同的议论者意见不一,其本意仍是个谜。
以下是转载的日文版
石川力夫
大正十五年(1926)、水戸に生まれる。継母とそりが合わず十五歳で家出。上京した後、十六歳の時にテキヤ新宿和田組・和田薫組長の若衆となる。
昭和十八年(1943)、和田親分の悪口を言ったヤクザ者を襲撃し、函館少年刑務所に服役。翌年八月に出所した後は親分の名誉を守ったという功績と、その暴力性により和田組内の地位を確立し、マーケットや舎弟を持つ一端の顔役となる。
昭和二十一年(1946)、「親分が面倒を見てくれない」という理由で和田組事務所へ暴れこむ。その後他の組員が自分を追っていることを知り、和田組長の差し金を思い込み、舎弟と二人で組長宅へと殴り込みドスで重傷を負わせる。妻・地恵子に助けられ逃亡を続けるが最終的には自首している。和田組長はこの時の傷から終生足が不自由だったという。
昭和二十二年(1947)、府中刑務所へと送られる。翌年、出所。やくざ社会の規律である“仁義”に背いたことから刑務所内でも命を狙われる石川に同情した警察・刑務所関係者が関東やくざの長老とかけあい、石川を助命する代わりに関東所払い十年にするという温情的処分が下された。
昭和二十三年(1948)、石川は所払いから一年二ヶ月しか経過していないにも関わらず、兄弟分・今井幸三郎を頼り関東へと舞い戻る。このころには石川はすでに麻薬中毒となっていた。
昭和二十四年(1949)、今井に賭場での態度を注意されたことから口論となり、ドスで今井に軽傷を負わせる。今井は報復などは考えていなかったが、石川は今井が復讐するものと思い込み、先手を打って今井宅へ乱入して拳銃を発射し今井を殺害した。その際に今井を庇った内妻・照子にも重傷を負わせる。隠れ家に立てこもるが警察と今井配下のやくざの連合軍に包囲され、投石により逃亡を阻止されてしまい、その場で割腹自殺を図るも死にきれず。
昭和二十六年(1951)一月二十四日、妻・地恵子がガス管を開けた上で手首を切り自殺を遂げる(この時代は石炭ガスを用いていたため一酸化炭素を大量に含んでおり、今日の七輪自殺のように一酸化炭素中毒による自殺手段として用いられた。現在では一酸化酸素を含まない天然ガスに切り替えられているため、ガスによる一酸化炭素中毒自殺は不可能)。
悲報を聞いた石川はショックから衰弱し肺結核を病み、服役に耐えられないとして仮釈放される。出所後の石川は麻薬密売人を脅迫してペエをせびる暮らしを続けていたが、たまりかねた密売人が和田組へ通報し、和田組長の実弟らに斬られ重傷を負う。その後は府中刑務所へ収監される。
昭和三十一年(1956)一月二十四日、布団を干すことを口実に刑務所の屋上に上がり、布団で顔を覆ったまま投身自殺を遂げる。石川は出所後に和田組へ闘争を挑むことを考えていたが両肺を病み肉体が衰えたことから前途に絶望し、地恵子の命日を期して自殺したとの説が有力である。
石川が生前に用意していた墓石には「仁義 石川力夫 今井幸三郎」と墓碑銘が刻まれ、命日は今井が死亡した日となっていたという。石川が殊更に「仁義」を刻ませた意味は論者によって意見が分かれており、その真意は謎のままとなっている。