大部分篇幅都在描绘:绝对女主角西野为代表的毕业潮,与田飞鸟为代表的官方继任者的世代交替。
没什么戏剧性,因为那些剧情你都知道。平铺直叙,四平八稳,一张稳固现有饭群的安全牌,像现在乃木坂的曲子和综艺一样的无聊。
影像素材单薄到支撑不起一个完整的概念,完成度之低让人险些要忘了这是日本最红的女子爱豆团,感受不到任何高于粉丝电影的艺术追求。
乃木坂一期生确实是像奇迹一般美好的存在,像一间充满了漂亮的小姐姐,爱,和包容的女子学校。
乃木坂的最大魅力,正是那转瞬即逝的,脆弱的无常之美(儚さ)。
这样的包装概念,和炒冷饭是背道而驰的。
当发现自己对于小偶像一轮轮的分别戏码已经感到疲倦,对那些大段的内心独白不再感到共鸣而只觉得信息量稀薄时,甚至开始觉得大概是时候结束我的wota生涯了。
“大家感情很好,所以想继续待在这里。“
类似的话说的太多也听得太多。当一个团队的成员不是因为共同的目标,而仅仅因为情感维系而聚在一起的话也太沉重了,也不利于新人出头,大家还是还走各的路,将来在更好的地方相遇吧!
在跨年前的27号,等到字幕组出资源,于是就看了。在此之前看过了豆组西野七濑部分的cut,长达一小时,而后看到斋藤飞鸟部分的cut,接近半小时,就有点疑惑,终于看完,之后为了讨论这部电影(为了高山一実流泪)又断续地赶在下架前看了两遍,直到现在才有空写写这部电影。
看这部纪录片最大的感觉,就是导演真的会使用音乐和剪辑,每一部分都很精彩。虽然导演自谦说不懂偶像团体,但是他与乃团的合作早已开始,四周年的制作录像就是由他执导,如这本纪录片,大量的古典交响乐,烘托出乃团的气势与内部的情感。跟着他的思路,我们可以看到一个乃木坂在幕后的生活画卷缓缓展开,从2017年她们获得第一次唱片大赏开始,到七周年结束。里面有面向我们这些观众或者饭时的精彩与感动,也有每个成员的内心世界。这些配合上导演的对音乐(尤其是20th《シンクロニシティ》和西野七濑solo《釣り堀》的运用)和剪辑(比如22th西野七濑各种跳舞的剪辑,西野七濑和秋元真夏种种的闪回),的确可以表现出这个团体的辉煌与对毕业成员的不舍,自不必言。
看完本篇,基本看法还是如短评所写(见最后),可以理解第二部创作时的困境,这位导演也很有水平,只是,看完两个cut部分的疑惑依旧没有消除,这本纪录片究竟在表达什么?想表达什么?为什么我以为的两个主角斋藤飞鸟和西野七濑戏份这么不匹配,差距这么大?
是为了纪念西野七濑毕业吗?可是结尾是斋藤飞鸟和与田祐希两条线的故事,而非西野七濑的背影。 是为了展现乃团承前启后的转变吗?可是怎么没表现出这种承接。 是海报的白七吗?可是白没什么镜头。 面向的观众是我这样的饭吗?饭大抵都知道其中经纬了,非饭能看懂并入坑吗?意味不明。 这些我都不知道该如何解释,梳理这部电影,只觉得是那一段时间的记录,也几乎无需再讨论了。
下面具体梳理一下整部电影:
导演作为一个因为不了解偶像团体准备回绝这份工作的路人,以这样的视角慢慢开始了解乃团,全篇分成了十个部分(小节名没记录下来,对着生肉随便翻译的,熟肉出来了就改,见谅):
1.没见过这样的团体 2.为什么她们会哭呢 3.无法看到同样的未来 4.为何要毕业 5.不得不驱使想象力 6.最好的回家路 7.养育那个人的街道 8.在舞台之间 9.离巢高飞之日 10.绝对不是说谎
前四节的视角非常好,可以代表路人来逐渐深入乃团,原本可以挖掘到非常宝贵的偶像叙事的实质,可是很可惜,到了第五节,画风一转,放弃了这种深入探讨,只停留在了成员因为毕业这件事对团体的珍惜,与达成成果的满足的展现。第六节更是之前所探讨的毕业的展现,只有西野七濑在毕业后对毕业的思考,这种对思考的放弃追问似乎在说在现实这一切都没有思考、探讨的余裕与价值,纪录片变成了对现实的注脚与概括。这时候回顾深川麻衣、桥本奈奈未、生驹里奈这三人的毕业场景,默默回顾了乃团的历史,似乎在暗示西野七濑也成为了这一段历史延长的一部分,也已经成为了历史。似乎叙述完了,第七节开始深入挖掘另一位主角斋藤飞鸟,导演可能用这部纪录片见证了斋藤飞鸟的成长,成为偶像的代价与斋藤飞鸟的真实想法都在这节展现出来。第八节则是生田绘梨花正传(有点像《红楼梦》的四十一回“栊翠庵茶品梅花雪”),之前的章节出场不多,多是说明性的角色,作为和秋元真夏对照出现的成员代表,大抵是为了表现成员在七周年前的准备艰苦,与代表留下来成员的想法,其中还穿插了四期生的成长。第九节则是七周年西野七濑毕业,海报的白七终于出现,白石麻衣和西野七濑也谈了各自对互相的想法,煽情到达最高处,一边20单,一边成员拥抱告别,可以说是回收线索,之前拍到的主要成员依次拥抱:四期生、与田祐希、高山一実、秋元真夏、生田绘梨花、斋藤飞鸟、樱井玲香、白石麻衣。可以说整个纪录片在这时,做到了根据时间顺序的同时尽可能实现了结构之美,探讨毕业——毕业呈现,之前对两个成员的介绍也进行了回收,她们在七周年展现了她们的最新成果。最后一节,展现了斋藤飞鸟的成长与思考,在国外似乎暗示着乃木坂进入了新的一章。
这样梳理下来,的确没有多少承前启后的意味,几乎就是西野七濑毕业过程的实录,有些节显然是现实的记录逼迫下的章节,比如第五节,呈现出一种团体内部因为毕业产生的团结的样貌与悲伤的情感。第七节和第十节反而有些游逸于整个架构之外,对主题表达也造成了一定的干扰。由于从日本那边上映到发行蓝光这几个月时间差的力量,乃木坂自身也有了很大的转变,其中就有最近斋藤飞鸟从原来的“dark鸟”似乎又变回了“甜鸟”。山下美月似乎完美诠释了“天然克腹黑,腹黑克傲娇,傲娇克天然”这句话,因为写真集和电影拍摄,她黏斋藤飞鸟黏得飞鸟又变甜了,有一种对电影结尾斋藤飞鸟向导演敞开心扉的呼应。去年开始也有应援会重新翻译她的早期blog,展现她初期的甜与努力,似乎也成了一种遥远异乡的呼应。这样看来,似乎斋藤飞鸟在这部纪录片末尾,已经显现了在乃团一期生逐渐毕业之时,她有向前走出一步的趋势。以此为切入点,似乎纪录片流水账般的叙述表面,似乎有了一些主题上的把握。
如果从这样的角度来看,我们可以看到许多成员的共通点——不能停留在原地,必须要有所改变。西野七濑、若月佑美、樱井玲香因此而毕业,斋藤飞鸟从原来的讨厌自我,慢慢接受自我,可以向成员展现真实的自我;大园桃子从对偶像这一存在本身的抗拒慢慢向“乃木坂这个团体还不赖嘛”,都可以视为一种向前走出一步。事实上,第四节也提到很多成员开始尝试一些团体活动之外的个人活动。三期生、四期生终于敢于站上舞台。另外对乃木坂这个团体来说,也是一样的逻辑,不仅仅简单地满足于日本本土的影响力,开始向海外发展,周年live也开始尝试比如威亚等活动,这些都可以视为向前一步、突破之一种,这样理解似乎比较恰当,主题似乎也勉强统一其中,可惜没有显性表达出来。如果是这样表达,似乎又与电影按照时间排列了十个小节有所不同。这种主题与情节安排的冲突与分裂,构成了表达上的迷惑。
当然这些讨论都建立在这部纪录片还想有所表达的基础上,如果只是想记录下一部分历史,不为表达的话,这种自我放弃式的影像就没什么可说的。
这部电影短评:导演舍弃上一部的热血与苦情王道主题,以一位对乃团所知甚少的外部身份来拍摄这部纪录片,比任何纪录片都要更加真实地展现出外部面对这样一个全盛的偶像团体时的无奈,不可触及。他试图通过记录这一段新老交替的时间里各成员活动中心境,旁人难以看到的后台内幕甚至采访成员本人去接近她们的内心,这一点上做得很成功,对七鸟桃祐花都可以听到她们的真心流露。可是是不是仅仅如此就可以作为这个团体的核心呢?未毕业的她们留在此处的原因呢?这一切都是模糊不明的,或者说未在纪录片中表现出来,表现出来的只是正如海报所表达的,留下来的成员对离去的不舍与伤感而已。如此看来,四期生、花花真夏桃祐,她们的作用除了或表达不舍,或见证不舍,还有延续这个团体。大多展现的是感受,背后的思考太少,成员被大量的行程冲击得无暇思考,导演也无法接近。这样的作品只能算是记录,非纪录片。纪录片导演既正中红心,也所托非人。如今乃团的繁荣已经决不允许乃团再走之前的纪传体史记,记录某几个成员的成长,以此展现乃团的壮大与进步,这样既没有足够的观众,也没有现实的条件,新加入的成员早已缺乏和乃团共同经历的可能,她们只能尽快成为即战力,赶上团队的步伐。这样只能拍编年体资治通鉴式,所以选择西野七濑毕业这一重大事件,记录下新老交替的历史几乎是必然。因此需要导演这样的煽情高手,去捕捉并记录每个历史性瞬间里成员的感受,尽最大可能煽动观众去见证这段历史。他记录下一切,配以高超的音乐,只是为了让我们感同身受。他都成功了。可是记录背后,他还试图去探索乃团的核心,新老交替中各人的内心,团队得以维持的根本,成员们留在团队的理由,这给了双方都出了难题:他无法组织整理手中的记录去回答这些问题,观众自然也无从获得自己的答案,大部分成员也无暇去思考这些问题。他只能遴选出思考的片段排列其中,展现对这些问题的回复。这些显然只是做到了“通”这个字,但没有“资治”和“鉴”,甚至只能说类似于风月宝鉴的风月而已。这无法满足我,大概正如这个电影标题所示的那样,她们到了这里,却不知何时吧。偶像也许不追求意义。
很喜欢这一年的飞鸟,是15单之后流露出最不安一面的时期,也是最后一次像这样流露出不安的时期。毫无疑问是毕业潮尤其是西野带来的蝴蝶效应。年底拍映像研开始就慢慢有改变了,这部纪录片记录下的很可能是最后一次飞鸟在镜头前的弱音。
「第七章 その人の生まれ育った町へ」
私が結構初期の頃から、今の感じにカラッと変わったから。
え、ヘロヘロな時期ですか?ヘロヘロ、昔ヘロヘロでしたよ私。
中学生ぐらいの時、普通の女子って感じ、すぐ病むみたいな、もうやめるみたいな感じ。
ビビ泣いてた。
「下町育ちなんですか?」
うん、そうですよ。
でも町自体は好きですね、下町。
「東京の下町に来ると、ちょっとほっこりするんですか?」
(頭振った)
ちょっと予想以上の人だった。うわ、そういう感じなんだ。
嫌になってきた。なんで帰ってきたんだろう私。
賑やかな様子。
知ってる人もいないな。
あ、わかんないな
「クラスメートだった人とか、そういうこと?」
うん、まだ顔が覚えてるかなとは思ったけど。全然わかんない。
誰も知らないな。どうしよ。
あ、知ってる人いた。
「成人式とか出るんですね」
いや出るつもりなくて元々。一回も帰ってきてなかったんです、家出てから。
でも母が、成人式出たらみたいな、って言って、親孝行だって聞いたから、成人式出たら親孝行だって聞いてたから、じゃ。
うん、あってなかった(父と)。
面白そうだけど、どうしよう。乾杯とかは楽しみですけど、その先私どうしたらいい。
卒業式ですよ、中学の。全然行った記憶がない。
行ったのかな、全然覚えてなくて
昔の自分を嫌う傾向があって、それが別にちょっと前でも、だいぶ昔でもなんですけど、が嫌いだから、だから、地元、こっちにいた頃の自分も必然的に嫌いなわけで、だから帰らなくなったから。
「行きづらかったんやつですか?」
そんな別になんだろう。わかんない。私が勝手に思ってただけだろうから。そんなにですけど。それをただただ地元のせいにしてるだけです。
地元とか、地元の周りの、昔の周りの人達のせいにして、じゃあ都会に逃げた。
なんかもうさよならっていう。さよならてした。
なんか、みてるよって、すごいねって。
疲れた。
「終章 嘘かもしれない」
(エディンバラ)ずっといきたいとは思ってて、でも海外の方がなんかちょっと一個テンション上げた自分を一回出せるじゃないですか。じゃないですかとか言って。
私はいいんですけど、大丈夫ですか? どうする予定なんですか今は?
でも楽屋で読んでる時は、あんま読んでないことの方が多いですよ。
なんとなく開いてるだけの時が多いですよ。
ひとりで居たくているわけではないですけどね。選択肢がひとりしかないから、ひとりなるだけです。
逃げてるんですね、ここに(読書)。
選抜発表の時は、普通に戸惑って
なんかビビりだから、私。周りの皆さんとか、見る人とか、ガードを感じるのかなっていうのはずっとビビってましたね。
あ、今もですけど。
でも、その、乃木坂結成当初とかは、全くそんなのなかったんですよ。
今って全部もう乃木坂っていうのがあるじゃないですか。
それがなくなった時が怖いですね。
何に自分がこれから感動をしたりするんだろうなっていう。うん、恐ろしいなと思いますね。
変化することに対しては、個人的な感情全くないんですけど
あまり、自我が出たらいけないっていう意識がなんかどっかにあって
それこそ、その、グループがなくなるとか、みてくれる人がいなくなるとかも、恐怖ではありますけど、なんか、それは仕方ないと思える部分もあって
あまり自分に興味がないから、だから多分将来のことも別になんでもいいやって思ってるし。
永遠にいられますね、ここ。
終わっちゃいますね。
先のこと?ぼんやりはもしかしたら考えてるかもしれないですけど
割とでも周り見ると、もっと明確に見えてる人がいるから、なんか、本来そっちの方がもしかしたら進みやすいのかもしれないけど
なんでだろう。
いきあったりばったりの方が好きなんですかね、あまり、決めてからっていうよりは、わかんないけど。
なんか、多分、その、自分、が、
できることなら、正統にいきたかったんですよ。
キャラクターとかも、なんか、
今の、その、自分の生き方とか、おさまったキャラクターとかに、なんか、負い目を感じてる。負い目っていうと違うけど、なんか、あんまいいもんだと思ってないから、自分の考え方とかも。
だから、そういう欲求とか願望とかも、てめぇが言うなって思っちゃうんですよ、自分に。
こうなったらいいなみたいな幻想を抱いても、なんか冷静になった時に、なんか、てめぇが言うなよって思う瞬間が来ちゃうから、ずっとそれを抱いて、それに向かって生きるみたいな生き方はあまり向いてない、かな。
「わかんないけど、前世でなんかやっちゃったみたいで、原罪があります?なんでその原罪を持ってんだろう」
わかんない、わかんない。
「いつから」
最近じゃないですかね、昔は流石にこんなこと思ってなかったから。
でもだからこそ、自分に期待をかけられる時もありますけど。その跳ね上がりのバネが大きくなるから、実はすごいいけんじゃないかみたいな期待をかける時もある。
でも今ずっと考えてて、期待しないって結構ずっと言ってたんですけど、嘘かもしれないなって思い始めてきた。期待しないって嘘かもしれないって思っちゃった。
してる気がしてきました。
「何に?」
人に。
私だったら、私みたいな人とは関わりたくないですよ。でも関わってくれる人は、まあ、いるじゃないですか。それが、あ、この人はもしかしたら、あれこれ見せても、幻滅しないでいてくれるんじゃないかみたいな。
もうじゃあこれが、このドキュメンタリーが終わったら、もう金輪際来ないですか、乃木の現場に。
あ、お客さんね、まあ、そっか。
「名前の由来はなんですか」
名前の由来?飛ぶ鳥のようにじゃないですか、わかんない、あまちゃんと聞いたことないけど。
「お父さんが決めた?」
多分
「どうですか、お父さんに聞いたら」
うん
終わっちまった。
曾经在去年7月和8月在电影院看过两次。第一次和在日本留学的乃团朋友toho新宿看,第二次带着国内妹子趁小电影院还在上映的时候抢个尾座。
豆瓣8.3分算高的,日本满分5分才只有2.9分。
大家都说平淡如水,事实是这样的。乃团走了8年,现在本身就平淡如水,你要它翻起大波大浪,没有外部震动,怎能翻得起来?相比之下欅坂和日向坂纪录片要上映了,到时候不知道又有几个人会去看?
回到正题,七在整部纪录片占了半片篇幅,有些人在喷运营太平淡无味,内涵就和我刚刚和日本某个看不惯偶像进军电影业的那个人一样,就是求稳。偶像电影频出,背后是公司的不亏损考虑,偶像总有基本盘。同理,七占了半篇,人家饭多啊,愿意为了七一个人花钱。豆组可以在世博轴那边投广告,鸟组可以跑到纽约时代广场投,说句不正确的话,不少选拔后排和under成员的饭,有没有能力去做这些?至少能让运营知道你们的能量。既然做不到,那么在要盈利的运营面前,又有多少发言权?
对于不少饭来说,没有照顾到他们的推,很不舒服,可以理解。但是这个世界,的确难以做到平均分配。回想你小时候,大部分老师不都喜欢成绩好能力好的吗?哪怕后进生真的很努力,在成绩面前,老师还是去拥抱先进生。有了山椒の毛,你还会觉得ちゅんちゅんちゅん很好笑吗?
说完了篇幅问题,再说走向问题。其实你让我再看一遍,说不定某些地方可能都心不在焉了,因为大部分走向,都是我们已知的。的确导演拍片确实不太行,但是我们其实也知道的太多了。一,不少开闭走过来的,都摸过一次石头了。从默默无闻到登顶日本,乃团的流程基本和开闭是一种路线。二,对于新饭来说,现在的补档太容易了。你现在想往开闭早期走,很多资源都不在了。而乃团,你很容易从始创开始走,特别是最近的媒体关注度和乃团走进中国,都是触手可得的,有的新饭都可以看个档装成老饭。况且就算是不补档,知道最近的事情的人总是比知道远古时期的人多,好巧不巧这部纪录片还就是讲这三年的事情。
具体的我也没什么可以多说的,我可以跟你们说,也许日向坂还残存着乃团早期一些精气神,如果真的失望的话可以期待日向坂纪录片,不过那要等疫情结束了。